この記事は2021年6月20日にVoicyで配信されたものを、AIを使ってテキスト化したものです。 一部誤字脱字や表現のおかしい部分がありますが、元の発言を忠実に再現させたものになるのでご容赦ください。

こんにちは、ブロガーで作家のはあちゅうです。

このチャンネルは、私が半径5m の日常の中で、見たもの考えたこと感じたことをシェアするゆるVoicyです。

「影響力がある人が影響力のない人に対して、晒したりするのは反則だ」みたいに言われていることにもやもやしています。

で、今日私が喋るのは、結構ね長い間私がもやもやしていることで、かつ定期的にネットで話題になる話なんですけど、あの、影響力がある人が、影響力のない人に対して、実名を晒したりするのは反則だみたいなことを、なんか世間一般では言われてるみたいなんですよね。

例えばですけども実際にあったことで言うと、あの堀江貴文さんが広島の餃子店に行った時に、なんかサービスの中でなんかこう、もやっとすることがあってそれを書いたら、何か餃子店ではなくてお店が分かるような情報書いて堀江さんが悪いみたいになってたりとか、あと最近私の友人でもある小林礼奈ちゃんが、あのラーメン店でこういうことがあったって事をシェアしたら、なんかこう、店名を晒す礼奈ちゃんが悪いみたいな感じの批判が結構あったんですよね。

議論の方向違くない?

でも、私はなんか…え、それってなんか議論の方向性が違うくないかって思ってしまって、なんか堀江さんの時も、礼奈ちゃんの時も、なんかそのお店で実際どういうやり取りがあったか、とか、なんかそういう方向に、行くわけじゃなくてなんかインフルエンサーへのバッシング、影響力がある人がそうやってお店を晒すのどうなのよっていう方向に行っちゃうのよ。

で、さらに気持ち悪いのが、なんか同じように、著名人とかテレビに出てるような人たちが、なんかネガティブな話題で実名を出すのはどうなんでしょうねみたいなこととか言う人もいるんですけど、え、でもあなた達が出演しているテレビとか、ワイドショーとか、あと大手メディアとかも、同じことしてますよねっていう、だってそこの人たちは流しで結構ねいろんな人とか事象を批判しているのに、なんかあのインフルエンサーが個人でそういう風に、なんか批判するのって、逆に批判を浴びちゃうんだっていうね。

で、もちろんその、影響力のある側っていうのは、自分の影響力に対しては自覚的である必要はあると思うんですね。んーなんていうのかな、やっぱりこう、フォロワー数の多い少ないっていうのは、ネット上ではある意味、武器になってしまうから、自分は優位な立場にいるかもしれないっていうことに関しては、んー、まぁ、ちょっと知っておいた方がいいかもしれないですね。

影響力がある人が持っているのは「拳銃」だという認識をしておく必要はある

あの自分の持ってるのは水鉄砲だって思いながら、拳銃打っちゃったら相手死んじゃうじゃないですか。だから自分が持ってるのは、拳銃なんだぞっていうその武器の威力みたいなことはある程度認識しておく必要があると思うんですけど、ただねなんか私はあの…店名とか人名を出して批判するっていう自由は、インフルエンサー側にもあると思うんですよね。

影響力がある人の発信が褒めるだけになるのは不自然で不自由

なんか影響力を持つ人の発信がさ、もうなんか褒めるだけになるって言うのも不自然だし、不自由だし、なんか自分に置き換えて考えると、やっぱ実際にこういうことがありましたっていうことを書くこと自体は全く悪いとは思わないんですよね。

で、それがなんか影響力を持った瞬間、何か悪いことは書いちゃいけないみたいになるのって、うーんちょっと私はよくわからないなって。でね、あの私自信ももちろん、やたらめったら実名を出したりとかはしないんですよ。で、それはなんでかって言うと、やっぱ自分も返り討ちに遭うと言うか、やっぱりそうやって、私が相手の名前を出すと、相手の名前よりも自分の名前の方が大きく報道されるっていうリスクがあるわけなんですよね。実際にそうなっていくと思います。

んで、なんか世の中の人は多分、今、あの広島の餃子店の名前とかは忘れてると思うんですけど、でも堀江さんがなんか餃子店とトラブルがあったっていうことは覚えてるんですよね。

自分のネガティブイメージにつながるリスクはある

だから、自分のネガティブイメージに結果的につながってしまうっていうリスクはあるんですよ。でもそのリスクを自分で自覚していて、それを冒してでも、このなんかお店であったことを伝えたいとか、このサービスはおかしいと思って思ったのであれば、それは全然言っていいと思うんですよね。

なんかその、インフルエンサーってものが 逆差別されてるって感じてしまっていて、フォロワー数が少ない人がフォロワー数多いに食ってかかったりとか、政治家とか大企業とか有名人を名指しで批判する時っていうのは、拍手されてることが多いと思うんですよ。

インフルエンサー=上級国民みたいに思われているイメージがある

でも、なんか逆に個人店とか一般人に悪いことがあった時に、批判したり言い返したりすると、逆に何か批判されたりとか晒したとか言われるのはすごいフェアじゃない感じがして、これってね多分ね、インフルエンサー=上級国民みたいな感じで思われてる節があるなって思うんですよね。つまり、なんか、インフルエンサーとか有名人は、常にいい思いしてるんだろうみたいな、そういうなんか、ルサンチマンが含まれているような気がします。

でもね、なんかそうゆう、ルサンチマンを感じている人っていうのは、結構ね、嫌な態度を現実で取ってくる人とかいるんですよ。例えばですけどその、有名人嫌いな人みたいな人って一定数いて、なんかこう、こちらは普通にどっかのお店に客として入ったとしますよね。そうすると、なんかこちらは本当にこう、一般客として振る舞っているにも関わらず、こっちは有名人だからって、サービスしねえからなみたいな感じで、なんだろう、こう権力のあるやつに俺は屈しねえみたいな、別に有名人が権力あると思わないんですけど、多分その、その人の頭の中ではフォロワー数が多いと金持ちだとか、そういうことが権力って言うことに置き換えられちゃってるんですよね。

影響力がある人に偏見を持って敵対的な態度を取ってくる人が多い

そういう人は、なんかこっちが意識してなくても、なんか親のかたきをとるみたいに、すごいね敵対的な態度を、初対面なのにとってくる人っているんですよ。現実世界でもそうだし、ネットでもね結構そういうことってありますよね。例えば、私が本当に何の関係性もないね、自分で好きで買って使っている商品を SNS でお勧めするとします。そういう時に、何かとなんかステマですかとか、そういう風に言ってくる人っているんですけど、それって多分その一般の人とインフルエンサーっていうのを、過度に区別しているというか、ある意味偏見が混じってるのかなと思いますね。もうインフルエンサー=ステマをするとか人を騙そうとするっていう風な、偏見を持ってるなーって思いますね。

でも、インフルエンサーだってただのこう、なんか、何て言うのかな、たまたまSNSのフォロワー数は多いけど、いち客だしいち消費者だから、もちろん PR で何かを呟く時もあるけど、でも普通に何かを使って良かったなとか、美味しかったなって思うことだってあるんですよ。それを全然なんか、普通にシェアした時に、ステマですかとか言われるのって、やっぱりいい気持ちはしないんですよね。

人間としては対等なわけ

で、私がよく思うのは、その立場の違いって言うだけのことを、上下の関係に捉えてしまう人ってすごく多いなと思うんですよね。だから、例えば、その目の前で有名人がいるとしてね、その人は職業として有名人をやっているかもしれないけど、でも人間としては対等なわけですよ。これは例えばお店とお客さんというのも、立場の違いはあるけど対等なわけ。だからお金を払ってお客さんはサービスを受けるけど、でもそのお金以上のサービスを受けさせろって言う権利はないんだよね。で、お店側だってお客さん選ぶ権利がちゃんとあると思うんですね。

だからお金を支払うもらうっていう立場はあっても、全然対等なんですよ。でも、そこで、いやいや、お客さんの方が上だとか、お店の方が上だとか、結構その対等だと思えず、上下で上下関係を自分の頭の中で作っちゃう人っているんですよ。そういう人は結構その、インフルエンサーはなんか立場が上だとか、そういう風に、結構人を上下関係で見てしまう、そして上の人に対しては本人も無自覚かもしれないけど、反発心とかを感じて、何かの刺激によって、ブワーってねそういうものが出てしまう。でもそれってなんかあれに相手のことを自分と対等な人間とは思ってないんですよね。

インフルエンサーがバッシングを受けるのは表現の自由に逆行していてもやもやする

はい、そんな感じでちょっとあっという間に10分ペラペラと喋ってしまったんですけど、私が言いたいのは、インフルエンサーっていうのは、自分の影響力に自覚的になって、使う場面に関しては慎重にならないといけないと思うけど、でも、なんか 店名とか人名を出したインフルエンサーが必要以上にバッシングを受ける風潮っていうのは、表現の自由に逆行していることなんじゃないかなと思って、すごくこう、見ていてモヤモヤしますね。

キレイ事ばかり言ってればいいわけ?

なんか、これはちょっと極端かもしれないけど、じゃぁ有名人って何か褒めてればいいわけ?美味しいですとか、素敵ですとか、言ってればいいわけ?って。それってでも、有名人を人間として認めてくれてないんじゃない。有名人だって政治に対して考えがあったりとか、あと何かに対して不満を持つことだってあるし、もちろん声が大きいかもしれないけど、でも人間として当たり前の感情とかをもってるわけだから、それを表現することに対してバッシングがあるって言うのは、私はちょっとなんか嫌な気持ちを持ってしまいます。

一般の人は誰だって有名になる可能性はあることを考えていないで発信している!

今日はなんか、有名人とかフォロワー数が多い人とか影響力のある人っていう言葉を使ったけど、でも、もう誰だって有名人になる可能性はあるんですよね。なんか本当に一般の、もう何十人かしかフォロワーがいないような人が、あの、なんかある1ツイートがものすごくバズって、1万リツイートされるみたいなこととかってあるわけですよ。そうするとなんか、別に有名人と一般人の区別なんてないわけじゃないですか。

だから、なんか批判する人って、自分のツイートがバズるとか、自分が有名人になるっていう可能性を一ミリも考えてないのかなとかも思いますね。なんか、もしかしたらその自分は絶対にそういうことにならないから、あいつらは違う人間っていう気持ちが更にこう、バッシングの勢いを高めているのかもしれないけど、でも、うーん、なんか、そんな風にあいつらは自分と違うんだみたいな、卑屈な心から出る批判ってちょっと歪んでるんじゃないですかね。

これがね、あの会社組織の中とかだったら別なんですよ。もう、明らかに上下があるから。でも、これが何か一般社会っていう感じにならされた時とか、ネット上って誰もが対等に意見を言えて、どんな投稿だってバズったりたくさん見られる可能性ってあるわけなんですよね。だから、なんか表現の場所ではみんなが対等なんですよ。そうでしょ。で、有名人だって元々は一般人で、たまたま注目の機会をたくさん得て、著名人になって行ったっていうことだから、うーんなんか、表現の場所でそういう上下の区別をつけるっていうことは、なんか私はすごくモヤモヤを感じていますっていうお話でした。

はい、ちょっとね、あの今夕方にこれ録ってたんですけど、旦那が帰ってきて今すぐご飯の用意しなきゃいけないので、ちょっとまだ喋りたいことあったんですけど、これで強制的に終わります。ではではまた。